時代は遡り、大正13年。現在の代表 赤坂架月(あかさかかづき)の曽祖父 赤坂治郎(あかさかじろう)は、東京
牛込の『大阪屋煎餅店』で奉公していました。関東大震災により東京は焼け野原となり、治郎は埼玉へと逃げてきました。埼玉県大宮の見晴らし通り(現在の南銀座通り)へとたどり着いた治郎は、銭湯『見晴らし湯』の一角を借り、のれん分けして頂いた『大阪屋煎餅店』を大宮の地でスタートさせました。
当時、瓦煎餅を主流に米煎餅やかき餅を取り扱っており、大宮競輪場や浦和競馬場へ販売しに行っていたと聞いております。
時は流れ昭和40年頃、大宮の食品衛生管理が厳しくなり、お煎餅の製造に機械を導入しなければ営業が続けられなくなりました。明治生まれの治郎は『それならば』と、一度店をたたんでしまいました。
仕事が無くなってしまった祖父 赤坂康二(あかさかやすじ)は、知り合いのお肉屋さんに頼み込み、当時大宮では珍しかったもつ焼き(ヤキトン)の修行をしました。
1年間の修行の後、昭和42年に、元大阪屋煎餅店のあった場所で『もつ焼 大阪屋』を開店。
大宮ではもつ焼きが珍しかった事や、競輪競馬帰りのお客が多かった事、泰司の妻 朋子(ともこ)の接客が楽しい事で、地元の有名店にまでなりました。
当時ビルブームだった波に乗った泰司は『赤坂ビル』を建設。昭和59年12月25日、現在の場所へ大阪屋を移転し、心機一転開店致しました。
現在、泰司の孫である架月(かづき)が三代目として大阪屋の看板を継いでおります。
架月は5歳の頃から大阪屋で面倒を見てもらい、時には接客、時にはレバ刺しのつまみ食いをしながらすくすくと育ちました。
中学3年生になり自分の進路を決める際に『自分は大阪屋が好きだ。大阪屋を後世に残したい』との思いだけで祖父 泰司に『僕が大阪屋を継ぐよ』と宣言。
その後は、PCや会計の知識も必要だろうと『大宮商業高校』へ進学し、卒業した後は調理師免許を取得する為に『新宿調理師専門学校』へ進学。
2年間料理の基礎を学んだ後、そのまま大阪屋へ入るかと思いきや、大阪屋が直接取引をしている『大宮臓器食品』(大宮の屠殺場と内蔵処理施設が併設された場所)へ就職。
実際に牛豚が屠殺される場を見て学び、内蔵処理を身をもって勉強してきました。
この間に泰司と朋子が年齢による体調不良等が増えましたが、母 治子(はるこ)と従業員のおかげで大阪屋は存続されました。
平成26年5月、いよいよ泰司の体調が不安定になってきた事を期に架月が大阪屋へ就職。1から大阪屋の仕込み、調理、接客、経営を学び、3年後
の平成29年に泰司から大阪屋を引き継ぎました。
令和元年11月1日 祖父泰司 永眠。
令和2年6月4日 祖母朋子 永眠。
令和4年現在、大阪屋は55周年。
治子、架月、妻 美奈子を中心に、アルバイトさんパートさんと協力しながら家庭的な酒場として日々営業しております。
また、架月と美奈子は3児の父母として育児にも奮闘中です!
豚モツは架月が修行していた大宮臓器食品より、毎朝 朝〆の新鮮な豚モツを直接仕入れています。
大宮でピンク色のデリバリーバッグを見たら、架月かもしれませんよ!!
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UBER EATS.
やってます。
自宅 de 大阪屋
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